山里の桃源郷 癒やしの原風景
日本人にとっての癒やしの原風景は温泉場に違いない。
辺鄙(へんぴ)な一軒宿も魅力だが、古くからわれわれのDNAに刷り込まれてきた“温泉のある風景”とは、温泉街であった。そうした有名な温泉街が苦境にあえぐなか、熊本の黒川温泉が脚光を浴びている。私は早くからこの田舎の温泉を“平成の怪物”と呼んできたが、的外れではなかったようだ。
田ノ原川が削った谷筋に、二十数軒の湯宿がひしめく平成の桃源郷、黒川。背後に日田杉が迫る小さな温泉街には、心和む雑木がふんだんに植え込まれ、どこか懐かしい山里のふる里を思い起こさせてくれる。憎いほどの演出である。
その昔、切り傷に特効があるため、疵(きず)湯とも呼ばれていた黒川は、日田と竹田を結ぶ参勤交代の街道沿いにあたり、江戸時代には大名をはじめ多くの旅人がここで疲れを癒やした。
閉塞(へいそく)感の漂う平成の今日、今度は日本人のふる里をイメージさせる癒やしの原風景を黒川に見いだした都会の疲弊した人びとが、吸い寄せられるようにやって来る。首から入湯手形をぶら下げて、浴衣姿で嬉々(きき)として露天風呂巡りに興じる様子は修学旅行生のように無邪気そのものだ。昭和40年代の良き時代の日本がここにはある。
宿の大半が15室前後の規模で、宿泊料金も1万5000円以内。しかも本物の田舎のもてなしと、本物の山の温泉がふんだんにある。混浴だが、河畔の「穴湯」などは良き時代のなごりそのものの村の共同湯だろう。
(松田忠徳・札幌国際大教授)