川越城を築城したとされる太田道真・道灌父子は、築城以来氷川神社を篤く崇敬し、道真は「老いらくの身をつみてこそ武蔵野の草にいつまで残る白雪」と和歌を献納し、道灌は境内に矢竹を植樹しています。また、江戸時代には、歴代川越城主の尊崇もたいへん篤いものでした。慶安元年(1648)には、城主松平伊豆守信綱が氷川神社に神輿・獅子頭等を寄進し、「川越まつり」が始まったとされています。
本殿は、川越城主松平斉典が寄進し、天保13年(1842)から嘉永3年(1850)にかけて建立されました。本殿の全面を覆う「江戸彫り」と呼ばれる精巧な彫刻は、江戸化政年間の名彫り師・嶋村源蔵の手によるもの。特に安藤(歌川)広重の浮世絵の影響をうけたといわれる波や、氷川祭の山車から取材した彫刻の数々は、たいへん見事です。
境内にある八坂神社の社殿は、寛永14年(1637)に江戸城二の丸の東照宮として建立された建物です。後の明暦2年(1856)川越城内三芳野神社の外宮として江戸城から移築され、さらに明治5年(1872)現在地に移されたもので、歴史的に貴重な遺構です。また、柿本人麿神社は、戦国時代に丹波の綾部から近江を経て移住した綾部家が一族の祖・柿本人麿を奉斎したものです。毎年、柿本人麿祭が行われ、多くの人々が訪れます。